君に抱き締められて
君を抱きしめて
言葉に出来ることなんて何もなかった
023:衝動のまま抱きしめて、言葉もなくただ立ち竦んだ
かつん、と靴音をさせて卜部は門扉の前に立った。呼び鈴は庇のついた門扉の奥の内玄関にあるので潜り戸を軋ませて入り込む。この時点で家人が気づいてもよさそうだが絶対数の少ない家なので呼び鈴を鳴らすなり引き戸を叩くなりして来訪を知らせる必要があった。素人目に見ても職人の技ではないと判る程度に調えられた庭だ。家主の時間と気が向いた折に手入れされているのを知っている。喬木は目につくから枝おろしをよくするが灌木は後回しにされがちで密に入り組んで茂った。いくばくかの地面から離れた隙間の空気が淀んで湿り、根元の土の匂いをさせた。心地よい腐臭だ。
とつとつと軽い足音と気配がしてがらりと戸が開く。藤堂は穏やかに微笑んで上がりなさいと道を譲る。卜部はどォもと軽く返事と会釈をして上がり込む。板張りと畳の混合であるから室内用の履き物の用意はない。縁側や廊下は板張りなのに奥の間や居間は畳敷きなのだ。ほんのりと湿気と植物じみた臭いがする。不意にしなやかに躍動する腕が卜部を拘束した。背後から抱きつかれて卜部の両腕は上がらない。両腕が上がっても相手の腕がそのまま上へ行き首へ回ってしまうので無駄なあがきはしない。もともと、この旧家然とした藤堂の私邸への訪いの理由ははっきりとしている。藤堂の行動は理にかなっている。藤堂の手首が見えて和装であることに気付いた。濃紺の飛白だ。藤堂は飛白を好む。鳶色の短髪と灰蒼の双眸を持つ藤堂に青や藍、群青はよく似あった。男物の着物は女性のそれに比べて変化も流行もゆったりとしているが、藤堂は着るものを選ばない容姿をしている。流行の服に着られているのを見たことはない。どんな服も藤堂の空気に馴染んでそれが当り前であるかのように柔軟に翻る。
丈は卜部の方があるのだが体のつくりはまるで違う。目方を測ればすぐ判る。藤堂の体は豹に似て強靭で柔軟だ。腕力も敏捷性も備えていて引き締まっているので細身に見えるだけで実力はある。拘束した卜部の体を離す気はないようで、首筋へしきりに鼻先を擦り寄せている。
「汗くせェだけですよ」
「閨でも汗をかくのにな」
藤堂にしてはまともな下品な揶揄だ。卜部は肩をすくめる気配だけで収めてから腰を落ち着ける場所を探した。立ったまま事に及べるほど卜部は若くない。察したのか藤堂の腕がふわりとほどけた。余韻のように袖が翻る。
「座っていればいい。茶でも出す」
身軽く台所へ向かう藤堂の背中を見つめてから卜部は縁側へ腰を下ろした。座布団を一枚引っ張ってきて尻の下に敷く。無作法を咎められるのも叱責さえも覚悟の上であるから思い切りだけは良い。
茫洋と目線を投げる先にあるのは灌木の密な茂りだ。種類の違う枝が互いの隙間を縫うようにして蔓延っている。一切合財を撤去するか放置するかしか手はなさそうだ。あの旺盛な茂りから一種類だけ植え変えたいなど、職人でも難渋するに違いない。夏も近いこの時期、土くれだけではなく風まで梅雨の名残を含んで吹く。この湿りが終われば灼けるような夏が始まるのだがここの土地柄として夏も湿気と縁遠くはない。暑さと湿気が四肢を萎えさせて卜部は季節ごとに食が細った。そろそろ卜部は一日一食は止めようと思っているが実行できていない。藤堂に話したのがいけなかった。無愛想で強面のくせに世話焼きでお節介であるから、ならばうちへ来て食べなさいと訪問の約束を半ば強引に取りつけられた。閨はついでだ。体で飯代払ってンなァと卑屈に笑いながら卜部は沓脱ぎの上の履き物を爪先に引っ掛けて揺らした。
不意に蹴っ飛ばしたいような衝動にかられて履き物を蹴り放った。くるくると緩やかに回転しながら庭の芝へ落ちた。裏面が見える。
「雨か―…」
もう一個あった、と爪先で引っ掛けようとするのを長い指先がとどめた。行儀よく膝をついた藤堂はため息をついた。
「子供ではないのだから子供ぽい真似はよしなさい」
「子供っぽく抱きつく野郎に言われたくねェなァ」
けらけらと笑うと藤堂がむっと顔を紅潮させる。耳や首まで紅い。
無音が続いた。雨天ではないのにだんだんと空気が重く生暖かい。
「巧雪、抱き締めても、いいか」
「好きにしたらいいでしょう。何ならここで脚ィ開いたっていいスよ」
戦闘力やありとあらゆる能力において藤堂は卜部の上位にいる。軍属の伝統にのっとれば服を脱いで尻を出せと命令したって構わないほど彼等の間には階級差という実力の差がある。
「私は、無理をさせたくはないから」
引っ込み思案な子供のように藤堂の紡ぐ言葉は無垢だ。だがそれは同時に藤堂の置かれている状況さえ暴露した。無理をさせたくないとは、無理を強いられた経験があるが故に出る言葉である。卜部の口の端が吊りあがる。目を眇めて下賤な嗤いからへらりと間抜けな微笑みへと移行させる。
「中佐ァ優しいンすネェ」
軍属の始まりは最下層からの出発である。明確な懲罰制度の君臨する組織内での生き残りをかけた手段は苛烈を極める。他国侵略を受けて事実上解体したようなものであるがその悪習だけが残って、己より下層のものに無理を通す悪癖だけは健在した。実力主義であった軍属は戦闘力で優劣が決まる。年齢などはあまり考慮されずそれゆえの嫉妬や羨望が生み出す結果さえも考慮されない。卜部は下層であった頃、己の体を引き裂くほど抱いた男といまだに切れずにいる。もっとも連絡を取り合うような親しいものではないから、案外路地裏で身ぐるみ剥がれて転がっているかもしれないとも思う。卜部は己を抱いた男たちの顔も階級も記憶していない。
藤堂の腕がおずおずと卜部の肩へ回され、うなじへ鼻先を擦りつけてくる。腋下や胸部を撫でる抱擁の目的は明らかだ。だが藤堂の手は閨というより卜部の体を検分しているかのようでもある。唇が頸骨を数えるように撫で指先は肋骨を撫でて隙間をぐいぐいと押してくる。胸部に留まっていた手はしだいに下腹部へ下りていく。骨格の守りのない腹や鳩尾を押されて卜部は嘔吐しそうになるのを堪えた。
「お前はまだ、綺麗だ」
腰骨の尖りとベルトに指先が躊躇している。卜部は黙ってバックルを解くと藤堂の手をひっつかんで衣服の中へ突っ込んだ、
「焦らされんなァ嫌いなんだよ」
先程からの触れてくる藤堂の指先はそれ自体が熱を持っているかのように卜部の体を火照らせていっていた。脚の間はすでに芳香を放つほど熱い。藤堂の手がびくりと怯んだがすぐに大胆に動き出す。
「抱きしめてェがとんだことになっちまうなァ」
卜部は振り向きざまに藤堂の唇を吸った。藤堂の手は目的を帯びて動き出す。
「巧雪…すまん…」
板張りの上で交渉するのが少し辛かった。腰だけではなく背骨や肩までギシギシと軋んでいるような気がする。
「いいスよ。誘ったなァ俺だし」
上位者が下位者を支配する、それだけの話だ。藤堂は限りなく上位に位置し、卜部の存在が影響するとも思えない。そして藤堂は頂点にいるわけではなくさらに上位がいるということは周知の事実だ。
「中佐も呼び出し大変でしょう」
気軽に吐いた言葉の重みは藤堂にだけのしかかる。卜部は元々揶揄の心算で言っている。悪意の有無は否めない。藤堂は黙って着付けを直す。卜部は下肢こそ着衣だが状態はシャツを羽織っただけの軽装だ。このまま路地裏へ行っても馴染む格好である。
「………知って」
「狸親仁の動向は敵味方関係なく注視されてますからねェ。もっとも、その監視が閨にまでいってンなァ俺らくらいでしょうけどね」
縁側に手をついて体重を支える卜部の手に藤堂の手がおずおずとかぶさる。
「女ァ魔物ですからねェ、傾城くらいあんたなら知ってるだろう、城を傾けんなァいつも女だ」
卜部の顔は藤堂の方を見ない。茫洋と暗い庭を眺めたままだ。丸い茶水晶がや天の星の煌めきに同化する。
「沈んでるとこォわりぃけど俺もいうことがある。俺を抱くの、あんただけじゃねぇから。俺の住処、路地裏に近いンだよ」
藤堂の灰蒼が見開かれる。潤みきったその艶は落涙を予感させながらいつまでも眼球の表層を潤ませるばかりだった。藤堂の膝の上で揃えた手が拳を握る。震えているのは堪えているからだ。何を堪えているのかを卜部は知らないし興味もない。枢木ゲンブとの閨が知れていたことか、卜部の性生活が奔放であることか。どちらにしても卜部にはどうしようもないし改善する気もない。ゲンブが藤堂を支配するのは崩壊する前の軍属の理論で考えれば当然の摂理でもあった。だから卜部はゲンブが藤堂を抱くことに対して何の感情も抱かない。愛しているというお題目の元の潔癖とは気が合わない。よりよい相手を見つけることのどこが悪いと卜部は思う。結果として藤堂はブリタニアという他国に支配されつつある日本の首相という最高位の男を射とめている。二人の関係の真っ当さは関係ない。机上で行われる会見や会議に必要なのは強固な結束であり、くわしい情の行き交いではないのだ。
「どこでそれを、知った」
ぶわぁと空気が変わった。殺気だ。髪さえ風でなびくように揺れる気がした。皮膚が収縮して鳥肌を立て体内の臓器がぎゅうと圧縮される。
「忘れましたよ、どうせ俺を抱いた下種の一人が寝物語の心算で言ったんじゃあねェですかね」
藤堂の殺気は一瞬だった。すぐに収まる。周りの空気だけが冷えたような気がして凍る想いをした。どん、とぶつかるように藤堂は卜部を抱擁した。その腕の冷たさが伝わってくる。先程までは融けるほど熱かったその皮膚は収縮を繰り返してひきつり冷たく凍えていた。末端である指先などただ肉と骨の感触があるだけだ。
「おい、そんな深刻に受け止め」
「……頼む、少し、このままで」
震えるような藤堂の声に卜部も強く出るのを止めた。もともと正義感も支配欲も持っていない。藤堂が待てというなら待つし、しろというならする。
「なぁ、あんたさぁ、俺とも遊んでくれねェかなァ」
藤堂の腕がびくりと震えた。卜部の耳裏を吸っていた藤堂は吐息交じりになんだと問い返す。
「狸親仁が空いた時でいいから俺のこと抱いてくれよ。体と感情が連結してるって思いこみは根強いからさぁ時々執拗で厄介なのが路地裏にいるンだよ。断る口実にするから、あんたァ俺を抱かねぇか?」
「うらべ、うらべは私は、私はほんとうに」
「お前を愛しているんだよ?」
「愛も恋も衝動で情動だ。理屈も理由もねェ。だからなんもない交渉があったっていいだろ」
これ以上踏み込んだら卜部はきっと藤堂から離れられなくなる。予感があった。卜部はきっと藤堂を見捨てきれないし利用しきれない。だからここで下種にでも何にでもなって抑圧しなければならない。環境をつくらなくてはならない。藤堂の好意は出来るだけ避けろ。傷を負わせずにただ遠ざけろそうすればきっといつか、飽きてくれるから。
「俺は愛なんか信じちゃアいねェ」
卜部が抱く藤堂への淡い想いも恋しい想いも好きだという想いも全部全部全部、なんにもなかったことにして卜部は振る舞う。感情を切り捨てた刹那、体が軽くなったような気さえする。もう嫌われるばかりであるなら取り繕う必要もない。藤堂は卜部の言葉にしばらく俯き加減で考え込んでいる。その腕が素早く動いて当初のように卜部の痩躯を抱きしめる。藤堂は薄く呟く。
そういう気遣いをお前、愛ともいうんじゃないかな
卜部の目が見開かれていく。茶水晶が収斂して瞳孔が狭まる。抱きしめてくる藤堂の顔は見えない。巧みに背後から抱き締めている。言葉さえない卜部を藤堂は黙って抱擁した。温かかった。
《了》